畠山さち子ホームページ

ショパン その1


フレデリク・フランソワ・ショパン

作曲家シリーズ、バッハの次はなぜかショパンです。

なぜかって言うと、私はピアノ演奏家なので、やはり作曲家というとショパンが真っ先に思い浮かぶからです。
ヨハン・セバスチャン・バッハの偉業を受け継いで作曲した後世の作曲家は数知れません。バッハよりも前には純正調という音の波長で高低を決めていたため、シャープが4つ付くホ長調やフラットが4つの変イ長調までで限界でした。しかしバッハはより多くの調性での曲の可能性を求めて、ドからドまでの2音を均等に分けて半音も入れて24の調性を作ってしまいました。それが平均律という訳です。これは24の調性でそれぞれ響きの印象が違いますから、確かに作曲の表現も内容も広がりましたが、12音をぴったりと割る訳には行きませんでしたので、僅かな誤差が生じたことにより、純正調の方が響きの点では美しく混ざり気がない、という事になりました。皆さんは、例えば、ハ短調で書かれたベートーヴェンの交響曲「運命」やピアノ曲「悲愴ソナタ」が他の短調で書かれていたら、どのような感覚の違いを感じますか。ホ短調のようにシャープが一つの調や、イ短調のようにシャープもフラットもつかない調とか。あまり運命を感じなかったり、悲愴感が薄れてしまったりしませんか。或いは、第9交響曲の「歓喜の歌」がニ長調ではなく、もし、ハ長調やヘ長調でしたら、どうでしょう。私には、ハ長調の明解な歌やヘ長調の爽やかな歌に思えます。心の底から沸き起こる歓喜を表現するのには、他の調性を探してしまうでしょう。そして行き着く調性はニ長調になると思います。

それはさておいて、24の調性でそれ以後の作曲家は自由に傑作品を創作しました。フレデリック・ショパンもバッハを尊敬し、自分でも24の調性で曲を作ってみようと、完成した曲が前奏曲です。24曲の各曲が全て違う短い曲の集まりですが、全曲を通して37分前後の演奏時間です。バッハの平均律クラヴィーア曲集のように、ハ長調、続いてハ短調のように、順番ではなく、ハ長調から始まりますが、第7番はすっきりと消化され心地よい印象を与える?イ長調で、某会社の社員さんはよいぞ見つけられたと称賛致しますが、胃腸薬の宣伝にも使われた極短い数小節の曲や、変ニ長調の属名「雨だれ」等が途中で出てきます。結核は当時、悪魔に呪われた不治の病として知られ、不幸にもショパンは20代で病魔に蝕まれて、住んでいた家を追い出され、使っていた家具類は悪魔を追い払うためと全て焼かれ、行き場を失ったショパンが、ある修道院に駆け込み疲れ果てて通路に置かれたベットに横たわり、ふと見上げると、降りしきる雨が上がり微かに晴れ渡った空の元、伽藍の天竺の淵から静かに雨の滴が垂れていた、という情景だそうです。そして最後はニ短調、これはバッハにも通じますが、地獄へ落ちると言われている低いレの音がとどめを刺すかのように3回大きく地鳴りのように鳴り響いて終わります。ロシアの作曲家なども悪魔や地獄をレの音で表現しています。
各調性で1ページに満たない曲からほんの数ページでこれほど端的に表現できたのは、バッハの恩恵を被りながら、ショパンの天分が発揮されたからでしょう。

 さてここで、私のショパンの思い出を綴りましょう。1990年5月始め、良いお天気に恵まれ、ショパン記念ワジェンキ公園の中、運ばれてきたグランドピアノの周りに立てられたマイクを通して、広い公園内に犬の散歩など気ままな格好で、気楽にベンチに座った約1万人の聴衆の前で全てショパンの曲目で演奏しました。この1万人とは今でも不確かですが、その場に居合わせたポーランドの主催者の見解です。そして、数名の方が、直後に手書きで演奏へのそれぞれの思いを手渡して下さいました。職業としている批評家さんではないのです。コンサートがイベントというより、日常生活に身近に関連しているなぁ、と感じました。ワルシャワから西へ約60キロ、ジェラゾヴァ・ヴォーラ村にショパンの生家があり、更に13日(日)には、その中にあるピアノで午後3時にコンサートを開催致しました。前年度にニューヨークの国際ショパンコンクールでの優勝がきっかけで、演奏契約されました。第二次世界大戦では一部破壊されましたが、1945年に内装などは当時の様子が蘇るよう再建されたそうです。コンサートは部屋の中の席は有料、窓は開け放たれ庭のベンチは無料です。3日後の16日は午後7時からワルシャワのショパン協会のホールで、前半は他の作曲家の作品も加えてリサイタル、日本からのツワー客も見かけました。当時のプログラムをそれぞれ掲載致します。ちょっとぼやけててわかりづらいのですみません。何となく当時の雰囲気を感じていただけるだけでもいいので敢えて掲載させていただきました。

1990年は民主化されてからまだ半年と間もなく、ワルシャワの都会ですら、一般家庭の国際通話は普及していないので、交換手に申し込み、一旦切ってから繋がるのを待ち、数時間後に交換手からの連絡が入り次第、相手側にかけるという面倒がありました。バスの運賃が7円に比べて、輸入製品でしょうか、板チョコが50円、紅茶のティーバックもなく、トイレットペーパーは日本の昔の黒チリ紙で、もちろんポケットティシューはないので珍しがられ、生肉類は板の上に並べられて午前中で売り切れ、野菜も果物も手に入りにくく、帰国した時、日本の豊かな食卓の食事には、何故か余りにも申し訳なく、殆ど食欲が沸かず手が付けられない日が何日か続きました。しかし、それから3年後、再びポーランド国内7か所で演奏する機会に恵まれましたが、その際には、それまでにポーランドは国中で確かな発展を遂げ、あまり不自由のない生活と見受けられました。演奏旅行はクラカウやチェコに程近い南部の保養地等で、中にはBuskoという地名があり、主催者に日本語を説明して、苦笑。いくら何でもブス子には参ったなぁ。

ショパンの曲には有名な「革命」の練習曲、「軍隊」ポロネーズと勇ましい曲名があります。一方、白魚のような手、華奢で色白な顔立ち、と言われているショパンですが、20才で祖国を離れてから、祖国を思い、両親や妹の安否を気遣いながら、ワルシャワがロシアに攻められ町中が崩壊したとの惨事や、ワルシャワ蜂起の知らせに、自分も戦いたいと騎兵隊に憧れて志願し一刻も外国でじっとしていられなかった時期がありました。しかし健康上の理由から兵隊には入団できず、部屋の中でピアノに向かい、その如何ともし難い強い意志を曲に込めて作曲したと言われています。ショパンが決して女性的な曲想ではないことがおわかり頂けましたでしょう。