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畠山さち子ホームページ

ピアノ演奏放浪記3



ベルリン留学時代 その2
更新2016年12月10日

 ベルリン留学時代その2の終わりで、続編をお楽しみに、と締めくくりましたが、頭の片隅に置きつつも1年以上過ぎてしまいました。お待たせ致しました、留学時代3年目です。

続編その3では、ようやく留学生活も軌道に乗り、演奏会やコンクールに挑戦する経験が増えてきましたので、その思い出を蘇らせたいと思います。

オーケストラとの共演で私が最初に踏んだ仕事の舞台が何と、1981年ベルリンフィルハーモニーホールで、シンフォニー・オーケストラ・ベルリンとだったのです。さらに、その曲目も日本ではあまり演奏されないチャイコフスキー作曲ピアノ協奏曲 第3番 変ホ長調 作品75です。

あの有名なチャイコフスキー作曲ピアノ協奏曲は第1番ですが、私が共演したのは第3番、なんとなく鉄腕アトムの主題歌の旋律に似ている気がします。ベートーヴェンの「皇帝」や「英雄」と同じ調性で、晴れやかな、誇らしげな印象の旋律から始まり、1つの楽章で構成されているので15分程の短い曲です。2,440席収容の大ホールはサントリーホールとそっくりで四方に客席があります。演奏の前はコンサートマスターに握手を、演奏した直後は四方に1回ずつ4回お辞儀をするようにと、指揮者から労いの握手を求められれば指揮者にもと、教授からのアドヴァイスでした。初めての共演だというのにステージマナーもいろいろと学ばなくてはなりません。真後ろに向かって通常の客席に背中を向けてお辞儀をするのには、さすがに抵抗がありましたが、その真後ろの席こそ指揮者の棒振りを正面から観察したいと、普段私が好んで座っていた席です。(ソリストがわざわざ後ろの席の聴衆に向かって挨拶され、真正面から姿や顔が見られたら嬉しいものです。)

でもそんなことよりもっと素晴らしい経験だったのは、2千人を超える広い空間に交響楽団と私の演奏が鳴り響くことに今まで味わったことのない恍惚感を覚えたことでした。演奏している時の緊張感より恍惚感のほうが勝っていたのでした。

しかし後に私が本来未知の世界に心底求めていた歓びは、この年の秋、年齢も近いオーケストラの仲間と初めて演奏旅行をした時にこみ上げたのでした。そうです、これが最もやりがいのある生き方の一つなのだと実感しました。曲はブラームス作曲ピアノ協奏曲 第1番、ニ短調、作品15。実に長い演奏時間で約50分間です。私の生まれる丁度100年前に作曲されました。ブラームスが初演した当時の聴衆は退屈のあまり非難の野次を飛ばしたそうです。彼自身は「僕はただ我が道を行くだけです」と指揮者に宛てて書き送りましたが、「それにしても野次の多さよ!」と付け加えているそうです。その後、この曲は世界中の人気を集めて参りました。ピアノが登場する前のオーケストラだけで演奏される前奏は何と10分間もかかるのですが、私にとってこれが最後のベルリン公演という事で、前奏のオーケストラの音を聴きながら段々と感極まってしまいました。ソリストとしての演奏旅行の終わりが近づいたことがひしひしと感じられたのでした。

さて、この演奏旅行の行程は、英国ノッティンガム市での公演に始まり、ドーバー海峡を船で渡り、西ドイツと東ドイツとの国境の手前オスナブリュックの町での公演、更に東ドイツをバスで通り抜けて西ベルリンまで、各町で公演しながらユースオーケストラの若い仲間と道すがら交流を深めたことは、充実した思い出になっています。私より少し年下の団員たちは、まだ音楽家になる道を選ぶかどうか誰も決めていない状況なので、それぞれ将来に夢を馳せたり、希望に話がはずんだりしていました。因みに、彼らはその後、ロンドン・フィルハーニーの団員になったり、音楽は趣味にしてケンブリッジ大学に進学したりとそれぞれの道に進みました。当時の姿や顔が楽器と共に今でもはっきりと目に浮かんで来ますが、もう私も含めて中堅のおじさん、おばさんとなっている事でしょう、ちょっと苦笑してしまいます。懐かしいなぁ。団員の一人だった英国人のお母上様から、「パーティーで着たドレスですが、もうこの色と柄は着ないので、宜しければ、コンサートにどうぞ。」と上品で綺麗な赤い花柄のロングドレスを頂いてしまいました。ノースリーブでしたが同じ生地でショールがついていましたので、私の二の腕を隠すために両袖をそのショールを使って作りました。今でもコンサートには感謝しながら愛用しています。私はすでに、この歳では着れないとおっしゃっていたそのお母上様の当時の歳も超えてしまいましたがね。

翌年の初め1月には全ドイツ国立音楽大学10数校から各1名が選抜され、その中から、優勝者「メンデルスゾーン大賞」1名を決めるメンデルスゾーンコンクールという20年の歴史を持つコンクールに参加致しました。個人で申し込みをして参加する国際コンクールとは違い、大学の代表というプレッシャーを背負った戦いです。本選は一般の聴衆も多く、ベルリン大学で開催されるこのコンクールに興味を抱く市民も層が厚いと感じられました。結果は満場一致で私が賞を頂きましたが、「地球の裏側、遥か彼方から来た人形のように小さな日本人が、我ら(西洋)の音楽を正に理解し、絶賛に値するのは、完璧なテクニックを前面に出すことなく、それを表現するために駆使して演奏したことだ。20年来にして初めて日本人が優勝した。」と新聞「ターゲスシュピーゲル」に評論が載りました。そしてドイツ政府の外務大臣からは祝電が届き、日本の読売英字新聞にも記事が記載されて、大学内では、見知らぬ学生からも、「あの日本人、優勝者だ。」とささやかれたり、身辺が忙しくなりました。同年10月にはイタリア・ヴェルチェリで開催されるヴィオッティ国際コンクールで入賞して、いよいよ1983年1月の日本ショパン協会主催デビューリサイタルの招聘が舞い込みます。いよいよという訳は、西ドイツ政府からの給費留学には、入学してから大学修士課程修了までの給費期間中は私費で一旦帰国してはならない、というのが条件だったのです。納得はして渡航しましたものの、やはり現在よりもはるかに不便な当時のドイツで、3年間も帰らない、のではなく、帰れない生活は、かなり我慢と辛抱強さを学ばせられました。そして、給費期限が終わって偶然時期よろしく、デビューとなったのです。年が明けて帰国した成田空港では、食事した際にふと見渡すと周りが皆黒髪。当たり前なのに、ハッと一瞬驚いて、あ〜、日本かここは、と実感が沸いたことを思い出します。家族からは顎が張り顔の形が変わったと言われたり。ドイツ語を話す機会が多く、日本語より口や舌を動かして発音していたせいでしょうか。

そして日本ショパン協会の主催で、盛会にてイイノホール(残念ながら、当時のホールは今は無いのですが)で無事日本デビューを終えました。

このデビュー後はひとまずドイツに戻りますが、伝統を重んじるドイツ人気質から抜け出して、他の国も覗いてみたくなっていました。そして私の演奏放浪旅が始まるのです。

次回は演奏放浪の第2ステージ、ドイツ留学に続くアメリカ留学記をお楽しみに。


 ところでベルリンの芸術、文化についてですが、ベルリンではシーズンオフを除いて、毎日どこかでコンサート、オペラ、演劇などが開催されてますし、しかもそれが世界トップクラスのレベルで拝聴、観劇できるのです。そこで1週間に何度も夜になると出かける生活が習慣になりました。フィルハーモニーホールでは老境のヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィルを指揮する姿を、ステージの上後方にある数十席のポディウムという4マルク、約400円の破格に安い席で真正面から楽しむことが出来ました。でもティンパニの真後ろに座った時は、さぁ大変、大音量のティンパニと奏者の徐々に高潮して顔がピンクになるのも目の当たりにしながら音楽を聴いたこともあります。
 カラヤン以外にも晩年のカール・ベームやセルジュ・チェリビダッケの指揮による演奏も拝聴できましたし、オペラではテノール3羽カラスといわれたホセ・カレラス、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティも堪能できました。ジャコモ・プッチーニの「トスカ」では劇の中で絶壁から飛び降りて自殺する場面で、女性歌手(レナータ・スコット?)が飛び降りたその直後、裏の床に設置してあったと思われるトランポリンに勢い(と体重!)が作用して客性から見える高さまで跳ね返り、頭が見えてしまうというハプニングもありました。悲痛な場面のはずが笑いを誘ってしまいました。またトーマス・マンの「ベニスに死す」では老齢の小説家の主人公が書斎の本を取ろうと、はしごで登って行った時にスルリと落ちてしまうという事故も・・・、観客には気づかれませんでしたが肋骨を折り、舞台そでからそのまま救急車で病院へ搬送されたそうです。オペラは何事もなかったかのように続行されましたが、終演後アナウンスで事態が明かされました。又、別のオペラでは本物の動物たちも登場したり、20時開演で23時過ぎまで上演される内容でも幼い子供たちが合唱劇などで参加していたりと、ありとあらゆる演出、演目が披露されていました。文化的生活の違いを認識させられたものです。


ベルリン留学時代 その2
更新2015年9月1日

私が住んでいたライニッケンドルフ区という場所は、東ベルリンの国境へ徒歩15分という西ベルリンでも北西に位置する湖が近くにある静かな町でした。演奏会などに行く時はドイツ分断時代の行政区ヴェディング区でバスを乗り換えるのですが、そこはトルコ人や周辺の国からの労働者が多く居住しています。ある2つの小学校ではクラスの2名のみドイツ人、他は外国語で話す子供たちで授業が成り立たなくなった、と聞きました。しかも物騒な地域として知られていました。ある夜、フィルハーモニー行のバスを待っていたら、道路の斜め前に停車した黒っぽい覆面パトカーから、突然4人の私服警察官が出てきてピストルを中腰で構え、すぐ前に止まっていた乗用車に向かって、出てこい、と。中から恐ろしい人たちが、3,4人両手を挙げて抵抗せずに出てきて、車の側面に顔を向けて両手をついていました。いやぁ、見ている場合ではないと、離れたところに退避しました。麻薬でしょうか、人身に関わる事件に関与していたのでしょうか。とても怖かったです。

 さて、レッスンは週1回60分でしたが、担当教授は週に6日間、1日に4時間、つまり4名の学生のレッスンを受持っていました。そしてその中の4、5人のレッスン曲が仕上がってくると、月1回或いはそれ以上の頻度で「発表会で弾きませんか」と勧められます。発表会は学内の手ごろな広さの室内楽ホール等で行われるのです。 東京芸大時代には学年後期に1回だけの試験でしたので、1年次の前期と3年次の学内演奏会を足しても4年間で、6回しか人前で演奏しないのにです。それが、今言ったように、ドイツではエッセン時代からいきなり美術館コンサート、大学ホールでの室内楽コンサートと、公の場に立つことが必須となりました。ド緊張してしまうのは当たり前ですよね。でも、終演後は教授と共にクラスの仲間や聴きに来た他の門下生の学生達と、近くの気軽なイタリアンレストランで夕食するのでした。そして、その場では教授からの注意や仲間からどのように演奏をしくじったかなんて、ダメ出しは一切ありません。演奏に満足した学生も失敗して泣き出しそうな学生も皆、ピザやスパゲッティでお腹を満たし、お酒も飲んで笑って元気に帰るのです。試験やコンクールではないので、結果を気にせず余裕を持って考えながら反省し、内容を改善することができます。精神衛生には良いですねぇ。人前での演奏が貴重なレッスンの3回分にあたるとよく言われました。

 室内楽の共演が芸大時代から大好きでしたので、同じ世代のドイツ人弦楽器、管楽器専攻の学生と知り合うと、私のアパートは練習するための好都合の場所となりました。彼ら、彼女らの演奏は当時から大変素晴らしいなぁと感じておりましたが、なるほど卒業後はそれぞれベルリン・フィルや北ドイツ放送交響楽団、ザールブリュッケン放送交響楽団などで活躍しています。練習後は料理した日本食を提供しましたが、巻き寿司や味噌汁、ワカメの酢の物を目の前にすると、皆指さしては怪訝な顔で質問しながら、慎重に一箸ずつ口へ運んでいました。まだ当時は日本食レストランや日本食料品店が少なく、日本食が一般にはあまり浸透していなかった頃です。麩や寒天、あんこやワサビの説明にも苦心し、醤油せんべいは味付きダンボールのようだと感想を頂きました。近所では何と20種類ものジャガイモのみ売っているジャガイモ屋があり、種類をよく知らずにジャガイモ1キロ下さい、と言って入ってきた私に、どれだい、どんなお料理に使うのかい、とドイツ人のおばぁちゃんに聞かれて、見回したら桶の中に確かに違う種類のジャガイモがそれぞれ入っていて、日本なら男爵とメークインくらいで事足りるのに、と驚きました。肉じゃがを醤油の説明から始めなくてはならず、肉じゃがを知らないドイツ人にイメージを想像してもらうのも手間がかかり、肉屋ではしゃぶしゃぶ用の肉といっても皆目見当がつかない様子で、とにかく紙のように薄く切れば良いんだね、と言われ、立派な塊の牛肉をスライスしてもらいました。それが、なんと今日のニュースでは海外での日本食レストランは8万9千店になったそうです。隔世の念です。


 


では次回、続編をお楽しみに。


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