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ピアノ演奏放浪記




東京藝術大学卒業からドイツ留学
更新2014年12月28日
 私は東京藝術大学音楽学部ピアノ科を卒業してからすぐドイツに国の給費生として留学し、以後18年間世界16カ国をピアノ修行と演奏活動で過ごしました。その間、ベルリンとかロンドン、ニューヨークといった大都会からとんでもない辺鄙な過疎地まで、師事するピアノの先生を訪ねたり、演奏旅行に行ったりとしました。 そしていろいろな人との出会いや一生忘れられないような出来事も経験しました。 今から振り返ると無茶な、しかしとても貴重な経験をしてきたなあと自分ながら感心するやら呆れるやらです。
 そこで、ホームページを立ち上げるに当たり、ひょうきんでしかし結構度胸のいい一女性ピアニストがどんな珍道中を重ねたか、エピソード形式で綴ってみたいと思います。
 これから、随時更新していきますのでよろしく。

ドイツ留学顛末
更新2014年12月28日
 今回はドイツ留学の話です。
1979年6月7日、いよいよドイツ政府から支給された給費留学生のためのルフトハンザ航空の航空券でフランクフルトに渡航することになりました。人生初の飛行機ということもあり、搭乗してから緊張のしっぱなし、これから21時間もの間ずうっと空を飛ぶこと自体が信じられず、離陸の直後に恐怖のあまり、とうとう涙を流してしまったのです。
近年でしたらシベリア経由で12〜13時間しかかからなくなりましたが、当時はモスクワの上空を飛行できず何と!アラスカのアンカレッジで一度給油のため着陸、同じ飛行機でカナダ経由の再飛行ルートだったのです。
 そうした長時間の飛行を経験した後フランクフルトに到着したものの、それからがまた大変。先輩のソプラノ歌手、2学年後輩のチェリストと3人でフランクフルト空港からバート・クロツィンゲン(BadKrozingen)という小さな町に行かなくてはなりませんでした。
 この町は古楽器の博物館があるところとして有名ですが、時刻表を読んだり駅の窓口で切符を買うため、たどたどしいドイツ語を使い、フライブルクで電車を乗り換え、3人で何とか到着できました。
 お腹を空かして入ったレストランで最初に注文したのがスープ、ところが、運ばれてきたのは、コップほどの小さな容器にほんのわずかのコンソメスープ?お値段からして野菜などたくさんの具が入っているかと期待していたのですが、中には5ミリ角程の何やら固形の具が4〜5個。8マルクほどしたそのスープは一さじ50円くらいだ・・と思いながらその具を大事に掬って食べたところ、これまでには味わったことのない食感。ん、何だ?テーブルの上の辞書をそっと開き単語を引いたら“亀”と出てきた。亀の肉が入った高価なスープだとわかりました。そして滞在したペンションの窓の下に広がる芝生の庭には、なんと20匹以上の薄茶色の野うさぎが遊んでいたのです。大好きなウサギに感激し、ドイツの丈の高いベッドにほとんどよじ登り、安堵感と旅の疲れから5秒で爆睡してしまいました。
 怒涛のような旅を経験した翌日からは、隣町のシュタウフェン(Staufen)のゲーテ語学学校に週末以外の毎日、9月末まで通学することになりました。当校にはペダルの壊れたアップライトピアノが1台あり、私は本来日曜大工が好きなので、ペダルにひもをつけ、内部から引っ張ってダンパーを上げて音が響くようにペダルの機能を工夫したりして、9月末の音楽専攻者によるお別れコンサートや大学院入学試験に準備していたソロ曲の演奏にも差し支えないように修復しました。
 ところで、今言った9月の音楽専攻者によるお別れコンサートでは忘れられない体験をしました。コンサートに出演していた日本人の声楽家が「タンポポ」という日本の歌曲を歌っていた最中、聴衆の中からくすくすと笑い声が聞こえてきたのです。その時は理由がわからず不思議だったのですが、「たんぽぽ」の「ぽぽ」という発音はドイツ語で「お尻」という意味だそうで、それで聴衆が笑ったということが後になってわかりました。
 こうしてウィークデイには語学研修やピアノの練習に励む一方、毎週土曜日は当校企画の5マルクバス旅行があり、近隣のシュヴァルツヴァルト(黒い森)、ボーデン湖、バーデンバーデン、フランスとの国境シュトラスブルクやコルマーにも行くことが出来ました。
 そして4ヶ月の研修を経て、無事ドイツ語中級終了試験に合格し、私はエッセンへ、仲間はそれぞれ目的の大学のある町へと旅立ちました。エッセン音楽大学での入試は3〜4名の教授の前で和気あいあいと行われ、和やかな雰囲気の中で問題なく入学が決まりました。
 間借りすることになったエッセンのアパートにはピアノはなかったので、毎日朝5時起きして6時前までに大学に行き、他の学生達と早い者順に並んでグランドピアノを確保、9時の授業が始まるまでは、練習のためレッスン室が使用可能でした。昼間は空いた部屋がなく全く練習できないため、授業が終わるのを待ち構えて、再び練習の繰り返しでした。日本の大学卒業後の留学生は全ての単位が振り替えとなり、毎週1回1時間のピアノレッスンのみで他の授業は履修しないので、それ以外は自由時間だったのですが、限られた時間内での練習は流石に辛く、しばらくしてピアノを練習できるアパートに引越しました。こうして正にピアノ練習漬けの念願の生活が始まったのです。
 昼食は学食でレンズ豆のスープや牛肉の煮込みとマッシュポテト、酢漬けのキャベツ(ザワークラウト)とソーセージ、小麦粉をこねて作った大きなだんご等、全て2〜3マルクで済ませていました。しかし石造りのその学食の建物は上の方に小さな窓がついているだけの、中に入ると暗い陰鬱な印象でした。何と戦争の時には死体置き場だったそうです。
 ちなみにエッセン工業地帯で知られるこの都市は、町を流れる美しい川の両岸で全く様相を異にしています。片岸は大学や美術館、オペラ劇場がある緑豊かな住宅地の一方、対岸はもくもくと煙の立ち上がる煙突がある工場地帯です。アパートの上の階の夫婦とは娘のように可愛がって下さるほど親しくなり、2学期間10ヶ月が過ぎたころ、師事していたK.ヘルビッヒ教授の昇格と共に私を含めた同門の生徒全員20数名が西ベルリンへ引っ越すことになりました。80年5月には編入試験を終え、それからの4年間は大好きな街、大都会ベルリンで留学生活を過ごすこととなりました。当時のベルリンは未だ冷戦下にあり、東西を分断する有名な壁がありましたが、ベルリンの文化に触れるなど、これまでの人生でも特に思い出深い毎日が始まったのです。
 

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